表紙に戻る        東海道一里塚の歴史

 東海道一里塚が作られて平成十六年(2004年)は 四百年目にあたります。
『塚』は三条大橋から日本橋間の距離を測る目安として又格好のオアシスとして 当時の旅人にとってなくてはならないものでした。
『一里塚』は、天正十年(1580年)頃、織田信長が 三十六丁を一里と定め自分の領域内の道に塚を築いたのが始まりとされていますが、江戸幕府は慶長九年 (1604年)、日本橋を基点に、主な街道の一里(約3.9km)ごとに塚を築く様に命じた。本格的に整備された のは、この時が始めてで。
慶長十七年(1612)頃には東海道、中山道についてはすべて完成し約10年ほどで 完了しました。街道の両側(又は片側)に盛り土をしそのうえにエノ木、等を植えた。大きさは約  幅五間(約9m前後)四方、高さは4m前後。が一般的な大きさで、榎木が一番多く過半数を占め 次に松、そして杉等を植えました、

一里塚の植木がエノ木になったのは、家康が担当の役人に 『エエ木(良い木)を植えよ』と言ったのを『エノ木を植えよ』と聞き違えたとか。

旅人は一里塚を行程の目安にしその木陰を休息場所とし。また、人馬料金の目安にもされました。
日本橋から三条大橋まで 百二十六里 六町 一間(561.01Km)というから百二十六ヶ所あってしかるべきだが現代では辛うじて 約二十五ヵ所、そして他の殆どが立札や『一里塚跡』の碑の表示、また『一里山』と言う地名の残っている ところ、中には何の跡形も無いところもあると言う状況です、 今残る僅か二十数ヵ所の『一里塚』は 先人の多くの努力があればこそ生き永らえて来たものです、私たちも心して、この故郷の歴史を守り 通したいものです。


ケンペルの見た一里塚

オランダ東インド会社の医師として長崎の出島に駐在したドイツ人医学者ケンペルが元禄4年(1691) 5年の2回にオランダ商館長につき添って江戸に参府した。そのときの紀行文『日本誌』(『江戸参府旅行日記』 平凡社東洋文庫)に次のような記述がある。
これらの街道<西海道・東海道>は幅広くゆったりとしているので、二つの旅行隊は触れあうこともなく すれ違うことができる。日本国内の仕来りに従っていうと、上りの、すなわち都に向かって旅するものは道の 左側を、下りの、つまり都から遠くへ向かう者は、右側を歩かねばならないのであって、こうした習慣は、 定着して規則となるに至った。

これらの街道には、旅行者に進み具合がわかるように里程を示す標柱 があって距離が書いてある。江戸の代表的な橋、特に日本橋つまりヤーパンの橋と名付けられている橋を 一般の基点としているので、旅行中 自分たちがこの橋から、又は首都からどれだけ離れているかを、 すぐに知ることができる<以上は榜示杭のこと>。街道の両側には、一本ないし数本の樹木を植えた 二つの丘が互いに向かい合って築かれていて、里程標として役立つ<以上は一里塚のこと>。国や大・小名の 領地が終わるところには、木か石の柱が立っていて、国境と藩を示す文字が記されているのを見出す <以上は榜示杭のこと>。また街道が分かれている所にも、このような道標があり、この道がどこへ通じ、 次の重要な町がそこからどれくらいの距離があるかを知ることができる。


東海道五十七次-(京街道)

文禄十三年(1594年)

余談 ☆ =元禄14年3月14日17時頃、主君刃傷事件を伝える、江戸から赤穂までの不眠不休の早駕籠の使者、萱野三平と速水後左衛門の二名は、江戸から赤穂までの約155里(約620km)の道のりを、『早やカゴ』に乗り、赤穂へ到着したのが3月19日朝4時頃とか。

室町時代の一休が 『門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし』  と歌っている。

1km=約9町、 100km=約25里。
1里
=36町(約3.92727273km) 1町=60間=360尺=(約109.09m)
1間=6尺=約1.818m   1丈=10尺=3.03m